遠く希望の鐘は鳴る
牧野は、その大きな背中を凝視していた。
「やっぱ駄目だなあ。イガラシさんがいなくなっちゃあよ」
この一年間、幾度耳にしたかわからないセリフだった。わかっていたことだった。
後輩育成。そう決めたときから、「ヘボ学年」のレッテルを貼られるかもしれないことは、わかっていた。
「なあ。近藤もいいピッチャーかもしれねえが、さすがに劣るだろ」
憤慨させるのに充分なセリフも、冷笑も、敗北も。すべてを受け止めた大きな背中を、牧野は凝視していた。
式典は進行してゆく。マイクを通して、より無機質さを増した教師の声が響き渡る。
『ーー近藤茂一くん』
「はいな!」
どっと沸く場内に、牧野は嘆息した。
いつからかはわからない。
わからないが、気がつくと隣には大きな図体があった。
わからないが、いつからかそれを不快と思わなくなり、いつからかそれがないことに不思議な空虚を覚えるようになった。
最後の夏が終わり、秋風が吹き、冬霜を踏みしめるようになったころ、名前も知らない学校からスーツの男がやってきて、
不思議な図体男は春から西へゆくことになった。
そのころ牧野は、偉大な先輩が待つ地元校に滑り込めればと必死に格闘中で、降って湧いた越境話にぽかんとしたことを覚えている。
次いで沸き上がったのは、失望とも、落胆とも、憤怒ともつかない不思議な感情で、その感情を処理できないまま冬は過ぎ、
牧野は合格し、卒業の春が来た。
牧野は凝視した。
背中を、横顔を、誰もいないマウンドを。
幾度となく見た、自信満々の横一文字を。意思の塊のような両の目を。思い浮かべた。
「こないなところにおったんか、牧野」
気安い声で話し掛けられぎょっとした。振り返ると、想像のうちからは掛け離れた人懐こい表情の近藤がいた。
「……何ンか、用かよ」
我ながらぶっきらぼうな声が出たな、と思う。思って、俺はこの三年間幾度こんな声をコイツに放ってきたのだろう、と思う。
それでもコイツはいつも決まって(ときには怯えた表情もあったが)、人懐こい笑顔を俺に向けてきた。ーー何故?
「いけず。用がなかったら、牧野に話しかけちゃあアカンのかいな」
「……べつに。…ンなこたあ。ねえけどよ」
調子が狂う。いつだってそうだった。こっちの気概も、決意も、心の準備も完全無視で、コイツはずかずかと俺に踏み込んでくる。
ーー踏み込んできたくせに。
「グラウンドなんて、ひさしぶりやな」
「……オメは放課後しょっちゅう乱入してたじゃねえか。ったく、松尾と慎二、困らせやがってよ」
「よくしっとんなあ、牧野」
「……っ! 教室で受験勉強してっと、嫌でも見えんだよ!」
「あ、そないやったんか。牧野も来ればよかったんに。見とらんで。」
ーー人の気もしらねえで。牧野はひとりごちて、きびすをかえした。これ以上話していてはいけないと思った。わからないが。
「どこ行くんや?」
「……帰えんだよ。さっさと帰って自主トレしなけりゃあ、せっかく墨高いってもついてけねえからな」
「また丸井はんと一緒やろ? ものずきやなあ、牧野も」
うるせえ。
俺がどんな気持ちで。高校でも。できればお前と、って。ああばからしい。
俯いたまま歩を早めた。
ばからしいことばかりだ。俺も、お前も。
ぐるぐるして何もわからなくて、三年間汗水垂らしたグラウンドの土が目に染みた。
背中に声がした。近藤。
「牧野おー!」
「ンだよっ!」
「おおきにー!」
「……っ!」
おおきに。
三年間、おおきに。ワイの球捕ってくれて、おおきに。自由にさせてくれて、おおきに。ワガママ聞いてくれて、おおきに。
ーー何も聞かんでいてくれて、ほんまに、おおきに。
「…………ンだよ、それ…」
呟いた。我ながらぶっきらぼうな声が出たな、と思った。思って、俺はこの三年間、幾度こんな声をコイツに放ってきたのだろう、と思った。
それでもコイツはいつも決まって、人懐こい笑顔を俺に向けてきた。人懐こい笑顔を、俺に向けてきてくれた。
「ーー……空けとけよ! 近藤!」
牧野は振り仰いで叫んだ。何を? わからない。わからないが、そう叫ばずにはいられなかった。
わからないことだらけで、それでも自分の空虚を埋めてくれていた図体男が、いま目の前にいた。
牧野は焼きつけるように凝視した。
少し慌て者の春風の中で、稀代の図体男が、至極照れくさそうに微笑んでいるその光景を。
焼きつけた。
- end -
夜宵さんから頂きました〜。いやあ、近藤牧野叫び続けてみるもんだ、こんな素敵SS書いてもらえるなんて。
あの、CPエンディングの「ありがとう」にも重なる、彼らの形。
ああ、この子達は、中学で出会ってしまったんだな、と思う。
道が違っても、この瞬間は、きっと色褪せない。
春の痛みを内包する夜宵さん独特の文は、やっぱり色気を感じて,大好き。(2009.4.21)